柿の専門の柿の加工がはじまったのは、1981年。初代石井勲の歩んだ道は以下の通り。
石井勲(64)が農協組合長となるのが、1973年
西吉野村を全国一の柿の町にしよう!(柿づくり世紀元年)1981年
石井勲(78)が西吉野村村長となる。1987年
なぜ、柿の加工を始めたのか?
地域のためになるから、農協が困っていたから、たまたま石井勲が農協の組合長をしていて困っていたからである。石井勲の考え方は、日本一の柿の町になるためには、規格外品を売っていてはダメ。柿を捨ててでも生産調整をして「西吉野の柿は素晴らしい」というブランド化だった。
そのためには、規格外品を捨てること。当時は(1980年以前)山に穴をほり柿を捨てていたが台風の被害に合い,埋めた柿が流れて川が真っ赤に染まった。そのような経験から石井勲が柿の加工を考え始めた。農協には加工施設がなく、頼む先は息子の2代目石井光洋しかいなかった。
石井光洋が母校の近大に頼んで柿ワインの研究を開始したことから柿の加工がスタートする。
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